ノンヴィーガンによる30通りの言い訳とその対応

ヴィーガンに対する理解が深まるQ&A

自分がヴィーガンであることを人に理解してもらえるように説明するのは難しいですよね。中には論破してヴィーガンを黙らせたいと思っている人がいるのも事実です。

今回のヴィーガン記事は、私のオススメするヴィーガン教育者エド・ウィンターズの提供している無料電子書籍(要登録)について要約して解説します。

しっかり意見を述べられるようになりたいヴィーガンの人、自分の中での理解を深めたいヴィーガンの人、またヴィーガンではないが向き合ってみたいと思っている人、ノンヴィーガンの方でいつもヴィーガンを実践している人に疑問を持っている人、どちらの方にとっても有用な内容になっていますので是非参考にしてみてください。

かなりボリュームが多いので「」のついた10項目をご覧頂くだけでも十分深まる記事になっているかと思います。

 

- 目次 -

0. 効果的なコミュニケーションのコツ
1. 動物が好きと言いながら動物を食べるの? ★

2. 動物を食べるのは個人の自由でしょ
3. 美味しいから、辞められない ★
4. 動物だって他の動物を食べるじゃん
5. 栄養のために動物を食べる必要がある
6. 伝統や文化だから仕方ない ★
7. 私たちの祖先は動物を食べて進化した
8. 食べなければ動物が増え過ぎたり、絶滅するかも
9. そんなことより人権問題のほうが大事
10. 植物も痛みを感じるよ ★
11. 動物は人間ほど痛みも苦しみも感じていない
12. 食物連鎖だから仕方ない
13. 人間は動物よりも知性がある
14. 人間は動物に命を与えてあげているんだ
15. 動物の扱い方を改善するだけで良くない?
16. 道徳は主観的なものだから
17. 何事もほどほどに
18. 100%ヴィーガンにはなれない ★
19. もし無人島に取り残されたら?
20. ベジタリアンで十分じゃない? ★
21. ヒトラーはベジタリアンだった/知人に不快なヴィーガンがいるから受け入れ難い
22. 牧場の仕事はどうなるの?
23. これが生命の循環だから仕方ない
24. 動物は理由があって繁殖されている
25. 大豆栽培だって環境を破壊している ★
26. ヴィーガンは極端で高価で難しいし、そもそもなんで肉の代用品を食べてるんだ?
27. 人間は犬歯を持つ雑食動物だ ★
28. 神は人間が動物を食べて良いと言っている
29. ヴィーガンになったら友だちや家族に嫌われる ★
30. 一人では何も変えられない ★

 
 

0. 効果的なコミュニケーションのコツ

会話を始める際に覚えておくべき重要なことは、話の相手は会話に基づいて意見を下すということです。そのため冷静かつ論理的なスタンスを取ることが大切です。そうでないと相手にヴィーガン自体が理不尽だという印象を与えてしまいます。

イライラしたり、論破しようとしたり、マウントを取ろうという傲慢な態度は相手をより遠ざけることになるだけです。

効果的な話法は答えを与えるのではなく単に質問を返すこと。質問することによって相手が自分で結論にたどり着けるようにし、動物に対する認識の中にある偽善や理不尽な点を浮き彫りにして相手自身にそれを理解させることができるのです。

「動物を人道的に殺す方法はない」と断言してしまう代わりに「動物を人道的に殺す方法はあると思いますか?」と質問するのです。

 

1. 動物が好きと言いながら動物を食べるの?

動物が好きなのに動物を食べ続けることは可能でしょうか?動物が好きだと言いながら殺された動物を食べることは「自分の子どもを愛しているが殴ってもいい」と言っているようなものです。もし「子どもを愛してるがその子どもを殴っている」親がいたらその親をサイコパスだと思うでしょう。

「動物を愛する人」が「動物を食べる人」であるのは矛盾しているのです。ノンヴィーガンの人が、動物が好きだと主張していたら、その人にその考えの偽善性を説明してあげてください。

「動物を傷つけることにお金を払っているなら、本当に動物を愛していると言えるのでしょうか?」と聞いてください。おそらく彼らは動物との関係についてこのように考えたことはなかったはずですから。

 

2. 動物を食べるのは個人の自由でしょ

「私の意見を尊重しなさい!」「あなたの考えを押し付けないで!」これらは動物性食品を食べる人が自己防衛する時の言い訳です。

これは人種差別者が人種差別を続けたり、レイプ犯がレイプを続けるのと同じこと。同様に、犬や猫を虐待することも個人の自由として正当化することになります。殺人犯、レイプ犯、虐待者を肯定できないように、ノンヴィーガンの人が自分の意思で動物たちを殺すことにお金を払い、それを支持することは正当化できません。

こうした場合のノンヴィーガンの人は、動物性食品が生きている動物からできているという事実を感じていないか、動物性食品の消費が自分にしか影響しないと考えて動物の命を軽視しているかのどちらかです。

ノンヴィーガンの人に何かを教えようとすると「他の人たちの意見も尊重すべき」という状況に遭うでしょう。しかし私たちはヴィーガンとして他の意見をすでに尊重しています。毎日搾取され殺されている全ての動物や魚の気持ちを尊重しています。

また現代社会における動物搾取のシステムの中で、犠牲になっている人間の気持ちも尊重しています。動物性食品の摂取でがん、糖尿病、脳卒中、認知症、心臓疾患などのリスクが大幅に高まるので、長生きしたいと思っている相手の気持ちも尊重していることになるのです。

「他の人の意見も尊重するように」と反抗的に言われた時、彼らが自分以外のどの気持ちを考慮しているのかという疑問に至ります。誰かに「個人の自由だ」と言われたら「生きたいと思っている動物の気持ちはどうなるのですか?動物たちの自由を考えたことはありますか?」 と聞いてみてください。

 

3. 美味しいから、辞められない

 

結局のところ人間は味を楽しむために動物性食品を食べます。しかし動物の命に対するモラルよりも個人の味覚という個人的な欲望の方が重要であることを認める言い訳は受け入れられません。

このような言い訳をする人は自分の味覚が動物の命よりも大切だと思っている事実に直面せず気付いていない場合がほとんどです。「肉やチーズの味が大好きで辞められません」と言う人には「動物の命より自分の味覚の方が大事なのですか?」 と尋ねてみてください。

さらに「味覚に対する自分の欲望が強すぎて抑えられないため、自分の不道徳な行動に責任を問われるべきではない」と自分を正当化している点にも問題があります。しかし、どこで線引きをするのでしょうか?殺人者が「殺人が楽しすぎてやめることなんてできない」と言ったら法廷で認められるでしょうか?

もっと動物性食品の味を楽しみたいと主張されてしまうこともあるでしょう。しかしチーズを辞めることの不便さは、乳牛が繰り返し強制的に妊娠させられ子どもたちを引き離される苦しみには遠く及びません。衰弱して屠殺されるまで痛ましいまでに搾乳されるのです。動物が経験する痛み、苦しみ、恐怖と比べれば取るに足らない言い訳です。

15分間で終わってしまう私たちの食事で消える動物の命は永遠の死です。個性ある動物の命を奪わなければならないほど価値ある食べ物とは何でしょうか?

嗜好を言い訳にする人にこのように質問してください。「動物を搾取し殺す行為を味覚の嗜好を満たしたいと言う理由だけで正当化するのは不十分ではないでしょうか?」「味が好きだということで誰かが犬を殺すことは道徳的に正当化できますか?」「死にたくないと願う動物に対しそれを強制することは構わないと思いますか?」

また現在ではチーズ、牛乳、卵、肉に代わるヴィーガン食材が豊富にあり、ハンバーガー、ホットドッグ、ラザニア、カレー、チーズピザ、ケーキ、クッキー、アイスクリームなど動物性食品の風味をあきらめなくてもいいことも説明しておきましょう。プラントベースの食材やヴィーガンのメニューのあるレストランを紹介することも有効です。

 

4. 動物だって他の動物を食べるじゃん

確かに動物が他の動物を食べることはありますが、この意見に信憑性がないのには理由があります。

まず肉食動物と人間を解剖学的に比較して考える必要があります。肉食動物は鋭い爪と巨大な牙を持ち、肉を消化するのに理想的な短い腸を持っています。人間は信じられないほど長い腸を持っていますが肉の消化には役に立たず便秘や大腸がんのリスクがあるのです。肉食動物の胃酸は非常に強い塩酸で生肉の消化に理想的です。一方、人間の胃酸は弱いので加熱不十分な肉によって食中毒にかかる理由もわかります。

こんなふうに考えてみましょう。あなたは生きている鶏とリンゴが入っている部屋に閉じ込められたら、必ずリンゴを先に食べますよね。私たちは生き物を見ても空腹を感じませんし動物を殺そうとは思いません。

動物は自身で獲物を仕留めます。彼らは殺すことにトラウマを感じませんしお金を払って代わりに殺してもらうことなどしません。肉を食べることが自然なことならば動物を殺すことに何の抵抗もないでしょう。また子どもたちに真実を隠すこともしないでしょう。しかし屠殺場の現実は子どもたちにとってあまりにも悩ましく不安をかき立てる存在です。
 

動物たちは必要に迫られて獲物を殺すのに対し人間はそうではありません。これらの関連性を理解することが重要なのでノンヴィーガンの人に「生まれつき肉食動物ですか?」と尋ね「食べる必要がない肉をなぜ食べ続けるのですか?」と問いかけましょう。「味が好きだからだ」と言われたら「命よりも味覚の方が大事なのですか?」と聞いてみましょう。

 

5. 栄養のために動物を食べる必要がある

私たちヴィーガンが生き続けていることが、この言い訳が真実ではないことの何よりの証拠です。しかしながらほとんどの人が動物性食品には他では得られない栄養が含まれ、私たちの健康と長寿のために必要であると信じています。 

ノンヴィーガンとの会話に出てくる主な栄養素は、たんぱく質、鉄分、カルシウム。少し上級者になるとビタミンB12についても触れてくるでしょう。

栄養に関する議論で極めて有効なのは、米国栄養士会と英国栄養士会の双方がヴィーガンの実践するプラントベースの食事が栄養豊富かつ安全であり、妊婦を含む全ての世代に適していると発表していることを説明することです。つまり私たちが動物性食品に関連付けているたんぱく質、鉄分、カルシウムその他の栄養素は動物を搾取することなく摂取できるのです。

地球上で最大かつ最強の陸上動物であるゾウ、サイ、カバはみな草食動物。ゴリラのDNAは約98%が人間と同じで草食動物です。人間とほぼ同じDNAを持ちはるかに力で勝る動物が植物から必要な栄養素を得ているのです。

怪力の世界新記録をいくつも達成しているパトリック・バブーミアン、NFLのデビッド・カーター、重量挙げのケンドリック・ファリス、ボクサーのデビッド・ヘイなど、世界中にはプラントベースのアスリートがたくさんいます。

ノンヴィーガンの人に栄養に関するこれらの情報を伝えた上で「動物を食べる必要がありますか?」と尋ねてみましょう。その上で「動物を殺すことは不必要な残虐行為になりませんか?」と尋ねてください。

 

6. 伝統や文化だから仕方ない

人間が何世紀にもわたって動物を食べてきたことは事実です。ですが「動物を食べることは伝統だから」という言い訳で継続してきたことやその存在を正当化できるのでしょうか?

かつては奴隷制度や女性蔑視が伝統とされてきました。ある地域では女性器の切除が伝統的に行われています。正当化できるでしょうか?伝統を口実にしてそれらを正当化できるものではないはずです。

スペインの闘牛、日本のイルカ漁、中国のユーリン犬肉祭、韓国のボクナル犬肉祭。どれも伝統行事ですが「ユーリン犬肉祭は伝統ですが犬や猫を殺しても構わないということになりますか?」と尋ねたいです。

音楽、ダンス、言語を通じて異なる文化や生活分野に敬意を表することができるのに、なぜ罪のない動物たちを殺して文化を祝う必要があるのでしょうか?見た目は異なりますが動物と人間は平等な存在です。

伝統という言い訳は、変化を抑止するために何世代にもわたって受け継がれてきたエゴの構築物です。

伝統を言い訳にする場合は「女性器の切除は伝統だから正当化されますか?」「日本でのイルカ漁は伝統だから道徳的に正当化されますか?」「これらを踏まえた上で文化や伝統は私たちの道徳性を示す良い指標になると思いますか?」と尋ねてください。

 

7. 私たちの祖先は動物を食べて進化した

「祖先が肉を食べていなかったら、あなたは存在していない」という言葉は必ずしも間違っているわけではありませんが、現代人と同じ道徳観を持たない祖先である原始人を、私たちの道徳観の根拠とするのはなぜでしょうか?

「祖先がやっていたから動物を食べることが正当化されるなら、祖先がやっていたから殺し合うことも正当化されるに違いないと思いませんか?」と尋ねてみてください。

祖先の話と同じように「私たちは昔から肉を食べていた」という人がいます。私たちの生き方を過去に求めるのは時代に逆行しています。「私たちがこれまでやってきたことだ」という場合は「女性蔑視が当たり前だった時代があったから、今日において女性蔑視が許されるでしょうか?」と問いかけてみましょう。

私たち人間は主に果物、ナッツ、植物、そして昆虫からなる食事で生き残った霊長類が進化したと認識されています。肉が知的な私たちの発展と進化を支えたと主張する人がいます。例えそうだとしても、ビッグマックを食べるたびに脳が発達したり、KFCに入る度に人類として進化するわけではないので現代社会とは無関係です。

動物を食べることで食糧難の時代を生き延びることができたのは間違いありません。しかし、かつての奴隷制度が基盤で現代社会の多くが構築されている事実が現代での奴隷制度を正当化するものではないように、動物を食べることで私たちが過去を生き延びることができたという事実が現代において動物を食べることを正当化するものではないのです。

動物性食品の摂取は、私たちの寿命を短くし、環境を破壊し、罪のない動物たちに想像を絶するほどの危害を加えているのです。

 

8. 食べなければ動物が増え過ぎたり、絶滅するかも

この言い訳は、もし動物を食べるのを辞めたら動物は全て解放されて環境に大打撃を与えたり、屠殺された後ただ廃棄されるだけだという考え方です。 

これに対しては畜産が需要と供給のシステムで成り立っているという事実を説明すれば良いのです。畜産農家は売れるだけの数の動物を飼育しそれ以上を飼育することはありません。

世界中の人々が一夜にしてヴィーガンになるわけではなく長期間にわたって段階的にヴィーガンが増えれば、それに比例して飼育される動物の数も減り、何十億もの動物が自然界に放たれたり、殺処分される事態にはならないのです。

すると「動物が絶滅してしまう」と主張する人がいます。そもそも私たちが食用にしている動物は自然界の動物ではありません。全て繁殖され都合良く品種改変された本来存在するべきではなかった動物です。

乳牛は本来の最大10倍の牛乳を生産するように改変され、鶏は本来の10~20個ではなく年間最大300個の卵を産むように飼育され、羊は本来より多くの羊毛が取れ、より多くの子羊を産むよう改変されています。

これらの動物が自然界で単独で生存できる可能性は低く人間が世話をする必要がでてきます。最終的にはこれらの動物を維持するのか、これらの動物が存在しない代わりに自然界の生物多様性を取り戻す方が倫理的に良いのかという選択になります。

また、これらの動物の多くはその国の固有種ではないということも重要です。例えば羊はアメリカ固有の動物ではなく本来はそこにいるべきではありません。牧場を作るために元々いた野生動物の生息地が破壊され、牧場の羊を守るために野生動物が狩られて殺されることも多いのです。

もし誰かが絶滅について言及したなら、畜産が種の絶滅の主な原因であり、私たちは過去6500万年の歴史で最大の種の絶滅に直面していることを指摘するのが重要です。

 

9. そんなことより人権問題のほうが大事

ヴィーガンの活動をして動物の権利を支持していると、突然、熱心な人道主義者になって「人権問題の解決に注力すべきではないか」という言い訳をして自分を正当化しようとする人が現れます。

この言い訳の問題点は何にでも適用できるということです。「ホームレスを助けるのは重要だと思う」という意見に対して「それよりシリアを立て直すことについて心配すべきではありませんか?」「障害者手当の削減について取り組む必要があると思います」「バングラデシュの衣料品工場で働く労働者についてもっと配慮すべきではありませんか?」と返すことができるでしょう。これらの問題は全て解決する必要があるのです。

この言い訳の最大の問題点は「人間は動物界とは別の存在である」という種族主義的な考え方にあります。

皮肉なことに人類がヴィーガンになれば動物の搾取だけでなく人権問題をなくすこともできます。現在私たちは75億人の世界で120億人分の食料を生産しそれでも8億人が食料不足で飢餓に陥っていますが、アメリカで家畜に与えている穀物だけでこの8億人を養うことができると言われています。飢餓に苦しむ子どもたちの82%は家畜の餌が栽培される国に住んでいます。ヴィーガンになれば不公平な食料配分に終止符を打つことができます。

さらにはあらゆる職業の中で最も高い確率で自殺、薬物、アルコール依存症、PTSD、うつ病を患う屠殺場で労働する移民労働者や貧困層の搾取をなくすことができます。労働者の90%は50歳未満で死亡し有毒化学物質によって重度の障害をもった子どもが生まれているインドやバングラデシュでの皮なめし工場の労働者搾取もなくすことができます。畜産業界が土地を得るために根こそぎ破壊しているアマゾンに住む部族の搾取をなくすこともできます。

私たちが食べたり身につける動物性製品を生産するために犠牲になっている人間がいるという事実を目の当たりにすれば、ヴィーガンであることは人権問題に注力していることでもあることが分かります。

このような言い訳に直面した場合は「毎年殺される560億の家畜に与える飼料がありながら8億の人間が飢餓に苦しんでいるのはおかしいと思いませんか?」「中東で戦争が起きていることやホームレスがいるからといって、お金を払って誰かに動物を殺させることが許されるのですか?」と尋ねてみるといいでしょう。

 

10. 植物も痛みを感じるよ

植物には中枢神経系、痛覚受容体、脳がありません。つまり解剖学的には痛みを感じることができません。人間や動物が痛みを感じる理由は、自分が危険にさらされていることを知らせその状況から逃れるためであると考えられていますが、植物は動くことができないため痛みから逃れられません。

植物が日光に向かって傾くなど細胞レベルで様々な活動をしていることは事実ですが知覚に基づいて活動はしていません。「植物は反応するが応答しない」のです。ハエトリグサはハエが着地したことを認識して葉を閉じるのではなく、着地の刺激に反応しているだけなのでそれがたばこの吸い殻でも葉を閉じるのです。

カリフラワーを沸騰したお湯に入れることと鶏を生きたまま茹でること、ブロッコリーの茎を切り落とすことと牛の首を切り落とすことと、ジャガイモの皮をむくことと豚の去勢とが似ていると考える人はいないでしょう。

事実、動物の肉1kgを作るには最大16kgの植物が必要です。つまり動物性食品を作るために殺される植物の数はヴィーガンよりもはるかに多く、アマゾンの熱帯雨林破壊の91%が畜産によるものだということも理解しておくべきです。植物が痛みを感じ、知覚があると信じている人には動物性食品を摂取することで、動物だけでなく植物も苦しめている事実を伝えてください 。

植物が痛みを感じるかの科学的根拠は未知の部分もあるため、動物性食品のために殺される植物の量について話すと良いでしょう。「1kgの動物の肉を作るのに最大16kgの植物が必要で、ヴィーガンよりはるかに多くの植物が殺されていることをご存知ですか?」「車の運転中に犬が目の前に飛び出してきたら犬を避けて道の脇の雑草に向かってハンドルを切りませんか?」と尋ねてみてください。これらの質問は私たちに動物と植物の間に道徳的な線引きがあることを強く印象づけてくれます。 

 

11. 動物は人間ほど痛みも苦しみも感じていない

科学的な観点から言えば動物が痛みを処理する脳の領域は人間のそれと同程度であり人間と同じような痛みの反応を示します。私たちのペットが痛みを感じると、身体を揺らしたり苦痛で鳴いたり、呼吸の速度や深さが変化するなどの異常行動を示します。これは人間も同じです。

また魚も痛みを感じることが科学的に証明されており、人間と生理学的に同一の感覚ニューロンがあります。実際、痛みを示している魚にモルヒネを投与したところ症状と反応が消えた事実があります。

精神的な苦痛についても動物が感じることが証明されています。赤ちゃんを奪われた母牛は何時間も泣き続けて嘆きますし、犬などの動物は仲間である人間に自分が置いて行かれると不安を感じることがわかっています。

そこで問題は、動物は人間と同じくらい痛みを感じるのかということです。自分たちが知的に洗練されていると考えている人間は、より多くの苦痛を感じられるという考えがあるようです。しかしそれを裏付ける証拠はありません。むしろ、その逆を仮定する方が正しいと考えられています。

例えば、足を骨折した場合、人間は問題が何であるかを知り、それが簡単に治療でき、いずれ痛みが終わることを知っています。一方の動物は何が起こったのかを人間と同じようには理解できず、痛みに大きく混乱し、痛みに終わりがあるということも理解できないため、同じ出来事でもより悪い事態になってしまうのです。 

しかし、実際には動物が感じる痛みの程度はまったく見当がつきません。だからといって不必要な痛みを与えることが正当化されるわけではありません。人間がどれだけ痛みを感じるかが重要なのではなく、経験したくないものだと共感することが重要なのです。

 

12. 食物連鎖だから仕方ない

自然界の食物連鎖は非常に重要ですが私たちが動物を強制的に繁殖させ飼育し屠殺するという行為は、自然からかけ離れた食物連鎖とは似ても似つかないものです。

全く必要のない行為を都合よく正当化するため人間が作り出したものであり、人間が最も優位で強力な種としての地位を主張するために構築された概念なのです。自分たちがピラミッドの頂点に立っているからこそ、自分たちより下だと思われるものを搾取する権利があると信じています。

ナチスがユダヤ人よりも優れている、白人が黒人よりも優れている、ある宗教が他の宗教よりも優れている、人間が動物よりも優れている、人間が犯してきた残虐行為は自分の力を誇示するための思い込みから行われてきました。 

そうではなく、力のある立場は弱者を支援する責任があることを意味します。私たちには生きるために誰かを殺す必要はなく自分たちの力を利用し他者の世話をすることでより良い世界を作ることができるのです。私たちの選択の自由には、あえて不必要な苦しみを与えることを積極的に選択した場合は道徳的責任を問われるべきなのです。

 

13. 人間は動物よりも知性がある

知能が生命の価値を決めるという考え方には問題があります。豚は犬よりも知能が高く3歳の人間と同じ認知能力を持っていることが明らかになっています。これは豚ではなく犬を食べることを肯定する理由になるでしょうか?もし知能に応じて食べ物を選ぶのであれば最も知能の低い植物を食べるべきで、全員がヴィーガンになるべきだということになります。

この言い訳のもうひとつの問題点は、知能は主観的な要素が大きいということです。魚の能力を木登りで測ったら魚が評価されることはないでしょう。知能と命の価値とはいったい何の関係があるのでしょうか?知能が高い人のほうが命の価値があるのでしょうか?

「他の動物は宇宙船を作って宇宙に行ったことがない」と言う人には「あなたは宇宙船を作って宇宙に行ったことはありますか?」と問い「人間は美しい交響曲を作曲できる」と言う人には「あなたは交響曲を作曲できるのですか?」と問います。

私たち人間は技術の進歩にもかかわらず最も知性に欠ける「地球の破壊」をしている唯一の種族と言わざるを得ないでしょう。自分たちの種の未来を守るためにほとんど何もしていないのですから。

誰かが知能の議論を持ち出してきたら「あなたの人生は学習障害のある人よりも価値があるのですか?」「IQが高い人はIQが低い人に何をしても良いのですか?」「豚は犬よりも知能が高いということを理由に犬を食べて良いのですか?」と尋ねてみてください。

 

14. 人間は動物に命を与えてあげているんだ

「家畜は私たちのお陰で命を与えられているのだから感謝すべきだ」という言い訳。この理屈を人間に当てはめてみましょう。もし子供が日常的に暴力を振るわれ食事も与えられず最終的には親の虐待で死んでしまった場合「親はその子に人生を体験する機会を与えてあげた」と考えるでしょうか?その子は生きられたことに感謝すべきでしょうか?あなたなら感謝しますか?

もし私が犬を繁殖させた上で虐待して殺したら、その犬たちに命を与えた私は善人なのでしょうか?私がいなければ生きていなかったのだから、私は道徳的に正しい人間なのでしょうか?これらの質問を対話の相手に投げかけてみてください。

この言い訳は迫害者や苦しみのない快適な生活を送っている非常に傲慢な人が使います。本当の苦しみを経験した人や理解できる人は、苦しみのある生活に感謝すべきだと主張することは決してないのです。

生きる機会を与えられる代わりに、繰り返し強制妊娠させられ、出産するたびに子どもを奪われ、耐え難いほどの様々な感染症にかかり、衰弱したあなたは逆さに吊るされ、喉を切り裂かれ、死ぬまで血を流しながら引きずられていきます。そんな人生を受け入れられますか?「ありがとう。もしあなたがいなかったら私はこの素晴らしい機会が与えられることはなかったでしょう!」と感謝するでしょうか?

私たち人間が動物に与えている生涯は命とは呼べないほどの地獄です。動物たちが感謝することは何もありません。

唯一感謝の気持ちを抱くとすれば、彼らの生涯が終わり痛みや苦しみが終わり、動物を商品として扱っても構わないと考えている人間の目をもう二度と見なくて済む時くらいでしょう。

 

15. 動物の扱い方を改善するだけで良くない?

オーガニックや平飼い(フリーレンジ)などの表示がある動物性食品を選んでいる人は動物に対してある程度の思いやりを持っていることを示していると言えます。しかしこれらの言葉が動物の搾取や屠殺を正当化するのでしょうか?

水責めされている囚人に枕を与えて「人道的に拷問された囚人」と表現するのと、鶏を平飼いにして幸せにしているというのは同じようなものです。

連続殺人犯だったジェフリー・ダーマーは被害者に薬物を飲ませてから殺していたと言います。被害者は苦しまず痛みも感じず自分が死ぬことにも気付かず殺されたわけですが、彼は人道的な殺人犯だったのでしょうか?

腕を骨折したときに鎮痛剤を服用するほうが何もしないより良いのと同じように、動物の扱い方を改善することは現状のままより良いという主張はあります。ですがそれは根本的な問題解決になりません。「間違ったことをする正しい方法は無い」と明確に伝えることが重要です。

問題は、動物の生活がどれほど素晴らしいものであっても屠殺した時点でそれは虐待になるということです。動物たちはより大きなケージでの暮らしや1年のうち数ヶ月間放牧に出られる生活を望んでいる訳ではありません。

平飼いはケージで育った鶏の卵よりも道徳的に正しいと顧客に信じ込ませることで卵の値段を高くするものです。どんなラベルが貼られていようとその動物は屠殺されて死んだのです。

こうした人には「平飼いやオーガニックという表示はマーケティング上の策略です。養鶏場の鶏は巨大な鶏舎で飼育され新鮮な空気や日光を浴びることはほとんどありません。そして卵を産まない雄のヒナは生まれてすぐ殺され、最終的に全ての鶏は屠殺されてしまうことをご存知ですか?」「死にたくないと思っている動物を、思いやりを持って人道的に殺すにはどうしたらよいでしょうか?」と尋ねてみてください。

 

16. 道徳は主観的なものだから 

道徳が本当に主観的なものなら善悪の判断は全て受け入れられ司法や刑務所は必要なくなるでしょう。それが事実なら殺人、レイプ、放火、窃盗などは全て個々の主観で容認されることになると伝えて反論できます。さらには「もし道徳が主観的であるなら誰かがあなたを殺すことは正当化できますか?」とも尋ねられます。

道徳が主観的であるという主張の理由として、動物が決められた道徳規範の下で生きていないということが挙げられますが、動物もまた倫理的な行動をしています。

多くの動物は困惑、悲しみ、哀悼などの感情を間違った行動を取ったと理解している場合に示します。道徳規範がなければ後悔や罪悪感を感じることはありません。なぜなら自分のしたことが間違っていたと理解することができないからです。

不必要な殺害は道徳に反していますし虐待は不道徳な行為です。それを理解するために宗教や科学は不要です。私たちがこれらのことを知っているのは何が正しくて何が間違っているか理解しているからです。

道徳の本質は犠牲者を意識することにあり、その行為によって不必要に苦しむ犠牲者がいるかどうかで定義されるべきなのです。道徳とは「自分がそれをされたいかどうか?」というシンプルなものなのです。

 

17. 何事もほどほどに

消費量を減らすことで健康的で倫理的な生活を送れるという考えを支持している人に対しては、健康と倫理に関する議論を結び付けています。

まずは健康的な側面について「少量のチーズや肉は良い」と言われたら「少ししか摂取しなくても身体に悪いことに変わりはありません。月1本のタバコが原因でガンにはなりませんが、タバコが身体に悪いことに変わりはありません。同様に、月に1度ベーコンを食べても死にませんが、本質的に身体に悪いことに変わりはありません。」と答えています。

さらに「プラントベースならコレステロールやトランス脂肪酸、ホルモン、抗生物質などの身体に有害な要素が一切ない」とも言えます。

次に倫理的な意味合いに注目してみましょう。人種差別主義者が人種差別の度合いを減らすことや、女性差別主義者が女性蔑視の頻度を減らすことは許容できません。無くなっていない限り、影響を受けている被害者はまだいるということです。 

これこそが、動物性食品の消費量を単に減らせばいいということが正当化されない理由です。控えめや削減といった倫理的な妥協案ではまだ搾取され殺され続けている動物にとっては意味が無いのです。

「何事もほどほどに」と主張する人の多くは朝食のシリアルに牛乳を入れ、昼食にハムとチーズのサンドイッチを食べ、夕食には牛、鶏、豚などを調理したものを食べ、デザートに乳製品を使ったスイーツやチョコレートを食べていることでしょう。このような食生活は「ほどほど」とは程遠いものです。

「倫理的な理由で動物性食品の消費量を減らしたのは素晴らしいことですが、以前ほど消費していなくても動物が搾取され屠殺されることにお金を払って加担しているということを考えたことはありますか?」と質問してみてください。

 

18. 100%ヴィーガンにはなれない

100%のヴィーガンになれないなら努力する意味がないという主張は、作物生産の過程で動物が死ぬのだから意図的に動物を繁殖させ、育てて殺しても構わないということを示唆するために使用される主張です。

これは例えれば「消防士が赤ちゃんを助けるため燃えている建物内に入ったが、もう一人いることに気付き二人とも助けることができないので誰も助けずに戻ってきた。」または「海上警備隊員が海で溺れている多くの子どもを発見したが、全員を救うことはできなそうなので誰も助けなかった。」と同じことで、「100%道徳的に正しい人間にはなれないのだからわざわざ良い人間になろうとする必要はない」と言っているようなものです。

動物性食品の購入は動物搾取や屠殺に意図的にお金を払って加担していますが、植物性製品の購入はそうではありません。その過程で動物が死んだとしても、それは残念なことではありますが意図的な行為ではありません。車で誤って犬をひいてしまった場合と意図的に犬を追いかけてひいてしまった場合は同じではないはずです。

この主張をする人には「車で誤って犬をはねるのと、わざと車で犬をはねるのとでは、道徳的に違いがありますか?」と尋ねてみましょう。相手が「はい」と答えたら次に「農作物の生産過程で誤って殺された動物と、屠殺場で意図的に殺された動物とでは、道徳的な違いがあるのでしょうか?」と尋ねてみてください。

また、動物性食品の生産にはヴィーガン製品よりもはるかに多くの植物が使用されているため、農作物の生産で殺される昆虫などの動物を気にかけるならやはりヴィーガンになるべきなのです。

ヴィーガンとは完璧さを追究するものだと考えられがちですが動物へのダメージを可能な限り最小限に抑えることであり、完璧を目指すということではないのです。

 

19. もし無人島に取り残されたら?

この言い訳はヴィーガンが偽善者であると錯覚を起こすことを目的としています。生きるか死ぬかの状況ではヴィーガンでも自分の命を優先して動物性食品を摂取するという結論に達したいと考えています。 

無人島に取り残されればヴィーガンであろうとなかろうとまず果物や野菜を探すでしょう。殺せる動物がそこら中にいるなら食べられる植物もあるはずです。動物がいたとしても殺し方、解体の仕方、調理の仕方を知らないでしょう。だからこそ、私はその動物と友だちになり、ゆっくりと死を迎えるまで友だちと一緒に時間を過ごすことを選びます。

生死を分ける状況で何をするかは誰にも判断できません。生き延びるために人間が人間を食べた事例もあります。しかし、生死を分ける状況で動物を殺して食べることを余儀なくされたとしても、日常的に動物性食品を食べることを正当化する理由にはなりません。

これこそが反論の主要なポイントとなります。私たちは無人島に取り残されているわけではないので必要に迫られて動物を殺して食べることはないのです。道徳的に納得のいく選択ができない極端な条件を作り出し、無人島で許される行為を日常社会に置き換えるという論法です。

本質を突く質問は「私たちの地球を破壊し続け、罪のない動物に対し虐殺をし続け、飢えた子どもたちを死なせ続け、あなた自身の健康をも悪化させ続ける選択をなぜ選び続けるのですか?」ということです。

 

20. ベジタリアンで十分じゃない?

この言い訳の問題点は、ほとんどのベジタリアンが倫理的な理由から動物の肉を絶っているにも関わらず、人間が動物を搾取している方法の全容を知らないということです。自分が倫理的な人間だと思っているならなおさらベジタリアンだけでは不十分なのです。

養鶏場では卵を産まない役立たずのオスは孵化してすぐに粉砕機に直行します。フリーレンジでもオーガニックであってもオスのひよこは産まれて最初に経験することが殺されることであり、卵を食べるということはひよこを殺すことにお金を払っているということなのです。

「鶏卵産業においてオスのひよこはどうなると思いますか?肉用に飼育された鶏とは品種が異なり、肉用には不向きであることを念頭に置いて考えてみてください」と問いかけてみましょう。また「平飼いとは、良心をとがめず製品を購入させるための格好のマーケティング戦略だと思いませんか?」と尋ねてみましょう。

平飼いの養鶏場でさえ平均してiPad1台分のスペースに敷き詰められています。多くの鶏は遺伝子組み換えによって本来の年間10~20個ではなく300個の卵を産み、そのストレスで病気になり45%以上は生涯のどこかで骨折すると報告されています。およそ1年6ヶ月が経ち使い果たされた鶏は屠殺場で喉を切って殺されたり、熱湯に沈められ茹で殺されます。

酪農産業も同様に、オスの仔牛は役に立たないため生後24~72時間以内に母牛から取り上げられ、中には銃で殺されることもあります。撃たれなかった仔牛は子牛肉用に育てられるか、肉用牛として農家に売られて飼育されます。仔牛肉になる仔牛はまだ赤ちゃんのうちに逆さに吊るされ喉を切り裂かれます。酪農業がなければ仔牛肉産業は無かったでしょう。また牛は人間と同様に出産して初めて乳を出すため雌牛を人工授精で強制的に妊娠させているのです。「私たち人間が仔牛のために作られた牛乳を飲んでいたら仔牛はどうなると思いますか?」あるいは「酪農業ではオスの仔牛は牛乳を出さないのでどうなると思いますか?」などと質問してみてください。

乳牛も本来の10倍もの牛乳を出すように品種改変されています。仔牛を産めなくなったり牛乳の生産量が落ちると母牛は屠殺場に運ばれ喉を切り裂かれ、その肉は安価な食肉製品として利用されます。乳牛は自然界では25年も生きることができる大型動物ですが、強制的に妊娠させられ搾乳されるという地獄のサイクルの後わずか4~5年で殺されてしまいます。「牛乳は人間ではなく仔牛のためのものですし、そもそも他の動物の乳を飲むのは変だと思いませんか?」と質問してみましょう。 

エシカルなベジタリアンを説得する場合は、養鶏や酪農で利用される動物は全て最終的に屠殺場で殺されることを説明するのが有効です。また、服飾、ショーなどの娯楽、化粧品などの業界で動物が受ける搾取についても説明する必要があります。ベジタリアンはこれらのシステムに自覚無く加担しているケースが多いのです。ベジタリアンであっても動物の搾取に大きく加担していますが、多くはその事実に気付いていないだけなのでヴィーガンを広めるための絶好の機会でもあります。

 

21. ヒトラーはベジタリアンだった/知人に不快なヴィーガンがいるから受け入れ難い

私は「ヒトラーはベジタリアンだった」という言い訳と「かつて知っていたヴィーガンの人はあまりいい人ではなかった」という言い訳を一個人の行動に基づいて人生観を否定している点でグループ化しました。

まず第一にヒトラーはベジタリアンではありませんでした。ドイツの政治家ゲッベルスがベジタリアンのガンジーと比較してヒトラーを好意的に見せようとした結果そうなったのだと思われます。

仮にヒトラーがベジタリアンだったとしてこの議論の背後にあるのは、歴史的に邪悪で残虐な行為を犯した人物が動物を大切にしていたので、ヴィーガンになると動物に対して人間を過小評価するようになるのではないかという考え方です。

歴史上、許しがたい犯罪を犯した毛沢東、ムッソリーニ、スターリンは皆肉を食べていました。ヒトラーの論理に当てはめると「スターリンは動物を食べていたから動物を食べるとスターリンのようになってしまう。ヴィーガンになった方がいいですよ」と言えるでしょう。

もしこの議論をしているなら、あなた自身はベジタリアンではなくヴィーガンであり乳牛や養鶏場のひよこの虐殺を永続させるベジタリアンの哲学とは異なることを認識させることも重要です。

理不尽な理由で動物を屠殺することはむしろナチスの行動に近いとも言えるでしょう。この言い訳の問題点は、ヴィーガンを真逆のものと関連付けてヴィーガン自体を悪者扱いすることです。

では続いて「かつて知っていたヴィーガンはあまり親切ではなかった」という言い訳。ヴィーガンの知人が良い人ではなかったためヴィーガンそのものを否定するという発想です。

この理屈には欠陥があります。かつてニューヨークでイギリス人が嫌いだと言った女性と口論になったことがありましたが、それがニューヨークの人全員、あるいは女性全員を嫌いになることを正当化する理由になるのでしょうか?

私たち誰もが人生のどこかで人と嫌な経験をしていますが、その一度の経験に基づいて全ての人々を見下したりすることは論理的ではありませんよね。

 

22. 牧場の仕事はどうなるの?

誰かが牧場経営者の生活を問題提起した場合、私は「畜産農家の生活を考慮する必要はもちろんあります。牧場の人は生まれた時から畜産業に関わり仕事の道徳性に疑問を抱いたこともないでしょう」ということを伝えます。

善良で誠実な牧場農家が十分な収入を得るために苦労しているイメージを多くの人が持っていることと思います。しかし私たちが考えなければならないのは、牧場は消費者のニーズに合わせて要求された仕事だけをしているということです。与えられたニーズに対して道徳的責任を負っている訳ではないということへの配慮が必要です。

「牧場経営者の生活をめぐる問題は解決しなければなりませんが、お金よりも動物や地球の命の方が大切だと思いませんか?」と問いかけてください。その上で「牧場主の仕事をどうするか」という話になるのではないでしょうか?

最も簡単なのは農業に切り替えて植物だけを生産することです。実際に多くの牧場経営者が実行に移しています。ヴィーガン協会は移行を希望する牧場に資金援助を行っています。もう一つは国による補助金です。国の税金の一部は農家を支援するためにありますが、その大半が酪農業や畜産業に支払われ動物性食品が安価である理由の一つにもなっています。この補助金を農業に投入することで動物性食品の価格が上昇して入手しにくくなり、植物性製品の価格が下がり入手しやすくなります。

土地が耕作に適さず農業に切り替えることが困難な経営者もいるでしょうが、仕事や生活のために動物を奴隷にして殺すことで利益を得ることが正当化できるわけではありません。畜産農家の人が新しい仕事を見つける苦労は動物たちの苦痛と恐怖に耐え続ける日々とは比べ物になりません。

誰もタバコを吸わなくなったらタバコ産業の仕事や生活が失われるからといって、皆にタバコを吸うよう勧めませんよね。また、全ての人が一夜にしてヴィーガンになるわけではないので、農家の人たちはすぐに仕事がなくなるわけではなく別の職業に移行する絶好の機会を得られます。

生活や仕事の話題になるなら家畜農家だけではなく屠殺場で働く人たちの仕事についても同様に考慮する必要があるはずです。「屠殺場で働く人は病んでいる」などと言われることがありますが、彼らは必要に迫られて働いているのであって望んで働いてはいません。この仕事が存在する理由は消費者が動物性食品を買うからです。屠殺場の労働者は移民や労働者階級の人々で他の選択肢がほぼ無いのです。

あらゆる職業の中でも最も高い確率でPTSD、うつ病、不安障害、自殺、薬物およびアルコール依存症に苦しみ動物を殺すことで心理的問題を抱えています。畜産業の廃止は動物だけでなく彼らにとっても解放となるのです。

 

23. これが生命の循環だから仕方ない

食物連鎖論と似たこの言い訳は、動物の消費が自然の摂理であり動物界の種としての役割を果たしているという信念に基づいています。しかし動物を食べることが生命の循環だと主張することは矛盾しています。生命の中で唯一明確な誕生と死の2つの瞬間。生命の循環とはまさにこのことを指しています。 

生きているものはいつか死ぬのだから意図的に命を奪うことは正当化できるという主張が正しければ、どんな命であれ好きな方法で奪うことが正当化できることを意味してしまいます。

逆に動物が人間を殺した場合には「生命の循環」は適用されないというのも興味深い点です。サメやワニが人間を殺したというニュースを聞いても「生命の循環だからいつか死ななければならないよね!」と傍観する人はいません。私たちは怒り、復讐のためにハンターや漁師を送り込み、その動物を殺そうとします。それは動物がさらに多くの人を殺そうとするのではないかという恐怖心から来るもので、もし人間が別の人間を殺したなら逮捕して刑務所に送ります。

生命の循環を理由に動物の殺害が正当化されるのであれば、都合よくこの論理を適用したい動物だけでなく、あらゆる動物の殺害も正当化されるべきです。さらに自然と思われるものが根拠ならば、動物の飼育、繁殖、搾取、屠殺、これら全ては正当化されません。

牛を強制的に妊娠させて、その子どもたちに与えるために作られた牛乳を人間が飲むことがどうして自然なことなのでしょうか?動物をガス室に入れたり肛門から感電死させたりして、その皮膚を身につけることが自然でしょうか?動物の目に化粧品を入れることが生命の循環という考えによって正当化されるのでしょうか?

これらは全て生命の循環の概念を覆しています。実際に私たちがやっていることは自然界とはかけ離れたものなのです。

 

24. 動物は理由があって繁殖されている

生物が存在している理由を人間が決める。この権利が人間にあると考えるのは人間の傲慢さの象徴です。私たちがいかに動物を犠牲にし見下してきたかをよく表しています。 

動物をどうするかを決めたからといってそれが正しいわけではありません。闘犬用に飼育する目的で犬を繁殖させたからといって、闘犬は道徳的に正しいということになるのでしょうか?一部の国では動物とのセックスが合法でありお金を払って動物をレイプする動物の売春宿さえ存在します。「繁殖させることには意味がある」という言い訳を使用すると売春宿で動物とセックスすることは完全に道徳的であるはずです。その動物はその目的のために繁殖されたのですから。

この議論は動物たちが自分の一生を生きたいと願い痛みや恐怖を感じたくないと願っているという事実を無視しています。動物たちは自分たちが繁殖されている理由など認識しておらず、生きたいと願う気持ちは人間と全く同じです。この言い訳を使ってきたら「闘犬が闘う目的で繁殖されているなら、闘犬は道徳的ですか?」と尋ねてみてください。

 

25. 大豆栽培だって環境を破壊している

国連は少し前に、気候変動による最悪の影響を避けるためには、全ての人が直ちに植物性(プラントベース)の食事に移行する必要があると発表しています。しかし、環境問題の一つに大豆栽培が熱帯雨林の破壊や生息地の喪失などの環境問題を引き起こしているというものがあります。 

大豆栽培による環境への影響や破壊が甚大であることは間違いありません。しかし、栽培される大豆の85%が畜産動物の飼料になっていることを考えれば、人間が消費するのに十分な大豆を持続可能に生産できるので、この議論はすぐに解消されるでしょう。問題は家畜飼料として大豆が大量に生産されている点であり、ヴィーガンが豆乳を飲むからという理由ではありません。また遺伝子組み換え大豆のほとんどが畜産動物の飼料として栽培されています。

もし誰かが大豆の話を持ち出したら「栽培された大豆の85%以上が畜産動物の飼料になっていることをご存知ですか?大豆がこれほど破壊的であるのは畜産のせいなのです」と伝えましょう。また「大豆栽培の環境への影響を心配しているあなたに質問します。大豆栽培の破壊的要素の主な原因が動物性食品であることを知った今、動物性食品を手放せませんか?」と続けることもできます。

さらに、畜産のために毎秒約60〜120平方メートルの熱帯雨林が伐採されていること、畜産が排出する温室効果ガスは地球全体の最大51%を占めているのに対し車や飛行機などの輸送システム全体では13%に過ぎないことを考えてみましょう。環境を大切に思うのであれば、ヴィーガンでなければなりません。ただそれだけのことです。 

環境活動家と話をする時にはこの情報を強調することがとても重要となります。なぜならほとんどの環境活動家はまだヴィーガンではないからです。環境問題に関して政府や企業が変化を主導することを期待しているからでしょう。個人として何ができるかを評価するのではなく、環境を悪用する企業を非難し現在直面している全ての問題を彼らのせいにすることが筋だと思っているのです。

変化を主導するのは私たち消費者であり政府は再生可能エネルギーへの転換を図り石油や天然ガスのロビイストからの助成金を受け取らないようにすべきです。私たち自身ができる変化を起こさず変革を求めるだけでは偽善なのです。

 

26. ヴィーガンは極端で高価で難しいし、そもそもなんで肉の代用品を食べてるんだ?

ヴィーガン食は制限が多いというイメージや高価でエリート主義であるという誤解があります。しかし、私はヴィーガンになったことで食べるものの幅が広がり、むしろヴィーガンでない方が制限が多いと思うようになりました。例えばピザ、ボロネーゼ、カレー、ブリトーなどヴィーガン化することができるのです。

唯一の違いは果物、野菜、種子、穀物、豆類、ナッツなどの植物から作られているということ。病気の予防や治癒、寿命を延ばしたり、動物とより調和して生きるのに役立つ食品なのです。

ノンヴィーガンの人は、がんや心臓病などの病気を引き起こす製品を多く食べています。奴隷にされ殺された動物から作られた食品で、これこそが極端な話だと思いませんでしょうか?

では「ヴィーガン食は高価で裕福でないと取り入れられない」という考えについてはどうでしょう。

どこのスーパーに行っても最も高価な食品は肉やチーズで最も安価な食品は豆、米、イモ類、パスタ、豆類などです。ヴィーガン食の大部分は穀類、でんぷん、炭水化物、野菜など最も安価な食材で構成されています。

ヴィーガン食が割高になるのは代替品を購入する時です。例えば冷凍のヴィーガン「チキン」ナゲットはノンヴィーガンのチキンナゲットよりも高いですが、これは需要と供給に関係しています。より多くの人がヴィーガンになり、それらの製品を購入すれば次第に安くなることでしょう。今や豆乳は牛乳と変わらない価格で手に入りますしヴィーガンチーズも安くなってきています。代替品であってもより身近で入手しやすくなってきているのです。

ヴィーガン食は高価なオーガニックフルーツを食べたりジュースバーに通ったりする必要はありません。優れたヴィーガン食の基本は動物性食品よりもはるかに安価で手に入りやすい食品です。

ヴィーガンはよく「動物性食品を食べたくないのに、なぜ動物性食品の代替品を食べるのか?」と聞かれます。動物性食品を食べることを考えると気分が悪くなりとても不快な気持ちになりますが、他のヴィーガンと同様に動物性食品の味が嫌いでヴィーガンになったわけではありません。

人生には自分の感覚的な喜びや満足感よりも重要なことがあることに気づきました。自分が楽しんでいるという現実の裏で動物に悪影響を与えるならばそれは正当化できないということを理解する必要があります。

ヴィーガンが動物性食品の代替品を食べるのは食感や風味を楽しむためであり、味を楽しむために動物を死なせたり搾取したりする必要がないからなのです。

 

27. 人間は犬歯を持つ雑食動物だ

人間は本来雑食ではなく草食動物や果食動物に近い存在であることを示す証拠はたくさんあります。しかし、人間が雑食なのかどうかだけが焦点となり、動物を殺すことが正当化できるかという大事な論点がずれるという問題点が生じることに気付きました。

もし人間が草食動物だと考えた場合、人間は植物からエネルギーや栄養素を得て生命を維持することができるということになります。つまり人間が動物を食べる必要性が無いことを意味し、それを正当化できないことになります。

私たちに犬歯があるからこそ動物が殺されることにお金を払うことが許されるという犬歯の議論を手っ取り早く否定する方法は、陸生動物の中で最も大きい犬歯を持つのは完全な草食動物であるカバだと指摘することです。

私たちの犬歯は生肉を引き裂いたり、動物を殺すことはできず、硬くて歯ごたえのあるリンゴなどを噛み砕くためのものなのです。

さらに人間の歯は平らで尖っておらず草食動物と同じように左右に動かすことができます。また人間の胃には弱い塩酸が含まれていますが、肉食動物は強い塩酸を持ち腸の長さは人間の3分の1と短く、動物性食品には食物繊維が含まれていないというのも重要なことです。

肉食動物なら食べる部位にいちいちこだわらず、生きた動物を目にするだけで食欲をそそるはずですし、グロテスクな内臓に強い嫌悪感を抱くこともないはずなのです。

 

28. 神は人間が動物を食べて良いと言っている

宗教は反論が難しい言い訳のひとつです。なぜなら動物を食べることが許されていると神に言われたと信じているからです。信仰心のある人とヴィーガンについて話す時は議論の焦点を宗教そのものではなく、宗教が動物搾取を正当化することではない、ということに当てる必要があります。

まず第一にどの宗教でも神は必要なら動物を食べてもよいと言っていますが、食べなければならないとは言っていません。

宗教の話題を持ち出す人には「イエスが生きていた頃は今のように食べ物が豊富ではなかったので、生き延びるために動物を食べる必要があったのは十分考えられますが、社会が進歩してその必要性がなくなった今、神の目には自身の創造物である動物を殺さない方が好ましいと映るのでは?」という内容を伝えてみてください。

動物を殺すことを正当化するために宗教的信念を用いることは、同性愛者や女性を抑圧するために宗教的信念を用いることと全く同じです。同じ論理で「私の宗教では同性愛者や女性を私よりも劣った存在として扱ってもいいと言われている」ことも道徳的なことになってしまいます。

また、神が私たちのために作ってくれた地球や地球上の創造物に対して行っていることを神が喜ぶとは思えません。あなたが木片を見つけ6日間かけて友だちのために素敵なテーブルを作ったとしましょう。それを受け取った友だちは心から喜び、感謝すると言いながら目の前でテーブルを破壊し始めます。それを見てあなたは嬉しいでしょうか?これが私たちが地球を使って神にしていることです。

神は人間以外の動物も創造しましたが私たちは何兆もの動物を殺すことで神に日々感謝しています。神の創造物の遺伝子を組み換えて都合の良い物を造り出し「神」を演じてすらいるのです。自らの子どものために作られる母乳を奪うことや、神が創った美しい熱帯雨林を破壊してより多くの牛を繁殖して屠殺することを神が喜ぶわけがありません。

宗教で何かを正当化する際の問題は、宗教的な文章は非常に曖昧で解釈に幅がある点です。同性愛が罪か否かの解釈がキリスト教徒によって異なるのはこのためです。

動物を食べることを正当化するために引用される聖書の一節に「生きている全ての動くものはあなた方の食物となるでしょう。私が緑の地球を与えたように私はあなた方に全てを与えます」とありますが「ただし、命ある肉、つまり血が流れているものを食べてはならない」とも書かれているのでしばしば文脈を無視して使われています。さらに聖書の創世記には「大地の全ての獣、空の全ての鳥、地を這う全てのもの、すなわち命あるものには食物として全ての青草を与える」と書かれています。

シンプルに「屠殺場は神と悪魔どちらの行いだと思いますか?」と質問するのも有効です。地獄は永遠の苦しみ、苦悩、痛みを伴う場所として説明されます。動物にとって屠殺場は地獄であり、慈悲深い神や預言者も屠殺場で起こっていることを許すことはないでしょう。私がクリスチャンによく尋ねる質問は「もしキリストと悪魔が子羊のいる部屋に閉じ込められたら、どちらが子羊を殺すでしょうか?」というものです。

 

29. ヴィーガンになったら友だちや家族に嫌われる

同調や協調を促す圧力に対処するのは非常に難しいことですが、他人の意見に左右されて道徳的に正しい生き方を変えてはなりません。交友関係の多くは食事が関係しているため、それを避けることで孤立したくないということが難しい点だと思います。

幸いなことにヴィーガンメニューを導入するお店が増え、ヴィーガンのコミュニティも増えています。ノンヴィーガンとの友人関係を心配している人は、オンラインのヴィーガングループに参加したりヴィーガンの交流会に行くよう勧めてみてください。同じ志を持つ人たちと出会うことができるはずです。

次に「家族」という側面を見ていきましょう。両親と一緒に暮らしながらヴィーガンになるとヴィーガンについて疑問を抱かれたり、倫理的な選択を笑われたりすることを懸念したり、何よりも愛する家族が不道徳な行為を日々積極的に行い、同時に彼らの身体を蝕んでいるのを目の当たりにしなければならないのは難しいことだと私も理解できます。

提案できることとしては、ヴィーガンになりたい「理由」を家族に伝えること、ドキュメンタリーやYouTube動画を家族に見てもらえないか尋ねること、ヴィーガン料理を振る舞うことで安くて美味しくて健康的であることを勧めることなどでしょう。多くの場合、家族はヴィーガンを詳しく理解していないため、ヴィーガンについての知識を準備しておくことが重要です。

しかし最も重要なことは、いつでもアドバイスを提供してくれる協力的なコミュニティの存在を強調することです。もし、友だちや家族との関係が不快で孤立していると感じたら、このコミュニティにいつでも相談できることを伝えましょう。ヴィーガンであることは決して独りではないのですから。

 

30. 一人では何も変えられない

この言い訳の心配な点は、もし皆がこの態度をとっていたら何も成し遂げられないということです。ネルソン・マンデラやマーティン・ルーサー・キングが「一人の人間では何も変えることはできない」と言っていたらと想像してみてください。

実際、一人の人間が何千人の心を動かすこともあります。大きなムーブメントも常に個人で構成されており、変化を生み出すのはその個人の努力の積み重ねです。アメリカでは2007年と比較して2014年に殺された動物は4億頭少なく、平均的な人が生涯で約7,000頭の動物を食べると推定されていることを考えるとこれは大きな変化と言えます。

これはまさに需要と供給の原理で、ヴィーガン製品を購入する度に私たちは要求されているものを変え、あるべき世界のために買い物で投票していることになります。そして需要が増えればさらに多くのヴィーガン製品が作られるようになります。これこそがスーパーにヴィーガンチーズが並び、レストランにヴィーガンメニューが出始めた理由なのです。

私たち個人の行動には道徳的な責任があり、他の人の行動に関わらず自分の行動が与える影響を評価する責任があります。ヴィーガンになることで動物を利用して殺す産業に対し「断固反対する」と激しく主張することになります。

もし皆が「一人では何も変えられない」という態度をとっていたら、今でも奴隷制度やアパルトヘイトが残っていたでしょう。当時は少数派だった個人が立ち上がり不正に対して声を上げたからこそ進歩が見られたのです。先人と同じように立ち上がり、動物、地球、そして私たち自身を救うためにできることは、私たち一人一人の行動次第です。

 

エド・ウィンターズ
Vegan Educator & Author & Public Speaker

1994年生まれ、イギリスのヴィーガン教育者&作家&演説家。Earthling Ed(アースリング・エド)名義のYouTuberとしても有名。ハーバードやケンブリッジなどの世界主要大学、グーグル社、TEDxなどでヴィーガンに関する講義やスピーチを行なったキャリアを持つ。

Earthling Ed公式ページ:https://earthlinged.org

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