男子バスケリトアニア代表のスポンサーを務めた米ロックバンド

グレイトフル・デッド

1965年〜1995年に活動しサイケデリックやヒッピー文化の象徴にもなったアメリカのロックバンド「グレイトフル・デッド」(Grateful Dead)。

1991年にバルト三国がソ連から独立、リトアニア男子バスケットボールは独立後初めての開催となる1992年バルセロナオリンピック出場を目指しますが資金難に直面します。そこに名乗りを上げたのが彼らでした。

今回の記事では当時社会現象にもなった、リトアニアバスケとアメリカロックバンドの奇妙なつながりについて経緯を解説していきたいと思います。

 

金メダル獲得の栄光と国家独立の苦難

そのエピソードはリトアニア独立前の1988年に開催されたソウルオリンピックに遡ります。アルビダス・サボニス選手やシャルーナス・マルチュリョニス選手といった後にNBAやリトアニア代表として活躍する選手を擁する男子バスケソビエト連邦代表。

準決勝では4年後にドリームチーム結成することになるアメリカ代表を82-76で破り、決勝では得失点の差でグループリーグ1位通過を譲っていた強豪ユーゴスラビア代表を76-63で破りソビエト連邦代表が金メダルを獲得しました。

1991年にリトアニアがソビエト連邦から独立し国籍がリトアニアとなった当時の有力選手は、アメリカNBAに活躍の場を移し翌年のバルセロナオリンピックへの期待も高まっていきましたが、独立直後ということもあって資金繰りに苦労していたのです。

ソウルオリンピックでの活躍後、NBAゴールデンステート・ウォリアーズに移籍していたシャルーナス・マルチュリョニス選手が当時交流を持っていたアメリカのロックバンド「グレイトフル・デッド」のメンバーは、その話を聞きつけるとスポンサーに名乗りを上げました。

 

ムーブメントを起こしたTシャツデザイン

リトアニア国旗の黄緑赤の3色がタイダイ染めにされた生地にガイコツがダンクシュートをしているオリジナルデザインのTシャツを作り移動中にリトアニア代表選手が着用すると、ユニークなデザインが話題となりグッズ販売は好調。リトアニア代表は無事オリンピックに出場するための資金を集めることに成功しました。

1992年バルセロナ・オリンピックのバスケットボールといえば、アメリカ代表が"ドリームチーム"を組んだ最初の年。マイケル・ジョーダンを筆頭に、ラリー・バード、パトリック・ユーイング、スコッティ・ピッペン、カール・マローン、チャールズ・バークレー、マジック・ジョンソン、デビッド・ロビンソン、クライド・ドレクスラーなどNBAから超一流が集まったスター軍団。

その圧倒的な強さでグループリーグを含む全試合で100点以上を挙げ圧勝を続けていたアメリカの前に、リトアニアは準決勝で76-127の大差で敗れ三位決定戦に進む事になります。

 

因縁の相手との三位決定戦

3位決定戦の相手であるEUN代表(旧ソ連を含む12ヶ国で構成されたチーム)はリトアニアにとってグループリーグが同じ組で得失点の差で1位通過を譲っていた相手。前回のソウルオリンピックの優勝国ソビエト連邦代表の選手はバルセロナオリンピックではこのEUN代表としてプレーしていたこともあり前回のオリンピック優勝国という位置付け。

1991年に独立してたリトアニアとの対戦ということもあって、お互いに並々ならぬ感情を持って臨んだ一戦は一進一退の攻防。4年前にソ連を優勝に導いたアルビダス・サボニス選手やシャルーナス・マルチュリョニス選手のスキルと経験を活かし、息を飲む接戦を82-78で制したリトアニア代表は独立後初のオリンピック出場を銅メダルで飾りました。

奇しくも4年前のソウルオリンピックで銅メダルだったアメリカ代表とよく似た戦績を経て、リトアニア代表としての初出場をメダル獲得という輝かしい成績で終えました。そしてその功績の裏には、独立までの暗く長かった苦難の時期と米ロックバンドの"アシスト"があったのでした。

 

もう一つのドリームチーム / The Other Dream Team

その苦難と栄光の道のりを描いたドキュメンタリー映画がこちら。当時の選手のコメントや当時の映像と共にバスケットボールのヒストリーを深めたい方にはぜひオススメです。 

ドキュメンタリー映画

"The Other Dream Team"(もう一つのドリームチーム)

(2012年/アメリカ)

引用元: "The Other Dream Team"

 


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