リトアニアをバスケ大国にしたアメリカ人
バスケットボール大国のリトアニア
リトアニアで人気のスポーツといえば100%バスケです。今ではNBAで活躍する選手も出てきているのでバスケ好きな方はリトアニアがバスケが強いということも知っているかもしれません。世界ランク10位以内の常連でもあります。
今回はそんなリトアニアをバスケ大国にした一人のアメリカ人について解説します。アメリカからリトアニアに帰化しバスケ発展に貢献したバスケ選手のお話です。
リトアニアバスケのルーツ
リトアニアでの熱狂的なバスケ人気が一人のアメリカ人フランク・ルービンによるものだと知る人は多くありません。プラナス・ルービナスとしてリトアニアに帰化し1939年の欧州選手権優勝の立役者としてリトアニアに大きな影響を与えた人物です。
バスケットボールはリトアニア系アメリカ人のステポナス・ダリウスという有名なパイロットによって国内に持ち込まれ当時はルールも大雑把でした。「ボールを持って輪っかに投げ入れる」ただそれだけで、ドリブル、パス、スクリーンアウトなどの戦術は存在しませんでした。
アマチュア選手団が出逢った一人のアメリカ人
1935年、ベルリンオリンピックを前に代表チームを編成できずアマチュア選手団でアメリカ遠征を行うことになったリトアニアですが、この時に身長2メートル、元UCLA(アメリカのバスケ名門大学)のセンターでアメリカを金メダルに導くことになるフランク・ルービンと出逢います。
その後ルービンは3年間に渡ってリトアニアでバスケットボールの指導に尽力し、1937年には最初の欧州選手権タイトルを獲得することになるのです。「速攻、パス、ディフェンス」に始まり「ワンマンチームにはならない」ことや「シュートを打てる位置の選手にパスを回す」ことを教えたと1990年のロサンゼルス・タイムズ紙は伝えています。
リトアニアバスケ史上もっとも重要な時期
中でも、リトアニアバスケの歴史を語る上で最も重要な時期は1939年と言えるでしょう。ルービンはリトアニア代表選手兼監督として欧州選手権に参加し、さらに数名のリトアニア系アメリカ人が代表に加わりました。
リトアニアはFIBA(国際バスケットボール連盟)に対して、ルービンの帰化が滞りなく進むように1911年リトアニア生まれという出生届を発行しました。これを疑ったFIBAはルービンがロサンゼルス生まれであることを突き止めましたが、その頃には第二次世界大戦が始まり、リトアニアを含むバルト三国はソ連の支配下となりその問題も掘り下げられることはありませんでした。
その後、ソ連の支配下で熱を広げていったリトアニアのバスケ文化。1988年にはソ連をオリンピック金メダルに導き、後にリトアニアの伝説的プレーヤーとなるアルヴィダス・サボニスを輩出したほか、独立後最初のオリンピックとなった1992年にはソ連を下して銅メダルを獲得するなどチームとして活躍しました。
今も残るルービンの名が元になった造語
ルービンはその後アメリカへ戻り膝を負傷する1955年までアメリカでプレーを続け、89歳でその生涯に幕を下ろしました。
2002年に出版されたバスケットボールの歴史を綴った本"Ever since,"の中で、リトアニアでは彼の名をもじった"ルービナス"という造語があり、ゴリアテ(旧約聖書に登場する巨人兵)やリヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物)などと同等の意味を持つ単語として紹介され、今も彼の功績は残っているのです。
2018年1月2日
OZY By ダン・ペレスシュク
引用元:"The American who made Lithuania a basketball powerhouse"